誰も私を好きじゃない。
なにかの合言葉のように。
私はよくこういうことを思う人間でした。
・・ということを言ったら振られました。
翻って、
私も誰も好きじゃないのかもしれない。
私はよくそう思って、
自分の人間的な寂しさにうんざりしてきました。
実際、「寂しい人間だね」といわれたこともありました。
それは、私のうんざりさに拍車をかけたわけですけども。
苛められてるあの子に優しくするのは、
単にあの子を独占したいからだとか。
ほら、
人間は誰も味方が居ない時に誰かに優しくされると、
その人にとても感謝するようにできているはずじゃないですか。
私はそういうふうな嘘をついてるんじゃないか、
って物心ついたころに思ったのです。
それはほとんど確信的なもので。
小学校から大学までずっと続きました。
私にとって私は悪人。
他人も、もしかしたら自分のように悪人なのかもしれないと
疑うことはありましたが、なぜか他人を悪人だとは思えませんでした。
エゴとか偽善とか嘘とか依存とか裏切りとか。
自尊心とかナルシシズムとか自意識とか。
そういう言葉をモノサシに、自分の行動を分析する。
悪人の自分に好意をもらうほどの理由が見つからない。
だから、他人の好意が信じれませんでした。
信じたくもありませんでした。
それを信じてしまうと、
自分の自分に対するイメージが崩れるから。
私は悪人である、という自分のイメージは、
長い間自分の中にあるいわゆる「自分が思う自分」で、
そういうイメージって、自我の一部として、
すっごく大切で、
一度そういうのが変に揺らぐと苦痛なんです。
でもね、問題はそこじゃない。
私が私を悪人だと思った理由。
それは自分と他人との間の壁。
どうしても、その壁の存在が大きかった。
それで作り上げたのが、
誰も私を好きじゃない、っていう言葉。
私は、他人との壁をそういう言葉にすり替えたんだと、
そう思います。
それは、好きっていう感情が、
自分と他人との間の壁を壊すものである、
という前提があったからだと思います。
私にとって、壁は強い硬いもので、
壁を壊すよりも、壁を正当化する言葉を作る方が、
たぶん楽で、適応的に生きていく術になりえたんでしょう。
このハナシは、
自分の感情も疑い出せばきりがないとか、
自分がホントに自分と思っている自分とは誰なのかとか、
自分はどこまでホントに自由意志で生きてるのかとか、
そういうすっきりした疑問にすり替えることもできたけど、
でも、
私にとってのこのハナシは、
そういう理論哲学みたいなハナシじゃなくて、
あくまでも一つの経験でそれは単なる理論とは、
全然強度が違う、ということをナントナク強調したいです。
自分宇宙と哲学は融合もするけど、
強度はまったく違うってこと。
自分宇宙というのは、ヒラカワさんの言葉ですけど、
私としてはそれは自分にとってすごく気になる問題とか、
自分にとって切実な緊迫性を持ってせまってくる問題とか、
ナニカシラの苦痛と寂しさを伴う問題のことです。
・・なんて、この6行を書いてる私は、
強度の少ない方の感情のうちにいます。
つまり、この6行は、
私にとっては、自分宇宙ではないってこと。
自分宇宙と哲学の繋がりについては、
ナニカシラ絶望的なものは感じますので、
それを自分宇宙のテリトリー内でどう考えてるかは、
また今度頼まれもしないのに書きます。
誰が読んでもないかもしれないここに。
自虐して終わります。
オワリ
半年以上更新してませんでしたが、気になってました。
半年以上前の私と今の私は多分少し差がありますけど。
その差がいい意味で現れた内容を、
11回から書ければいいかもしれません。
でも、私は個人サイトを持ってて、
そちらの方にたまに文章書いてるんですね。
エッセイともいえないような、
なんかよく分かんないカテゴリーの文章。
ちょうど、この一語いちごの中のような文体と内容です。
たぶん読む人によらずとも、
誰が読んでも似てると思いそうな文章です。
ですからね、
似たような文体の似たような内容の文章を、
しかも私っていう一人の人間が、
誰に頼まれもしないくせに、
わざわざ2つのHPで掛け持ちして書く意味があるのか、
・・とかそういう疑問がありました。
なので、少し考えてみたり、読み直してみたりしました。
それで、似てはいますが、内容は違うことに気づきました。
ここに書いてるのは、
それは子供の頃に思ったこと。
子供の頃から思ってて今も解決できないこと。
子供の頃には意識化したことなかったのに、
子供からちょっぴり大人といわれる年齢になる移行期に、
それは突然嵐のように(ドラマのタイトルです)、
私が不思議に思ったこと。
つまりたぶん私の根本のところなのかもしれません。
ナルシスティックな表現ですいません。
別に私の根本なんてどうでもいいんですよ。
私が個人サイトに書いてるのは、
その文章を書いてる時点でリアルタイムな私が、
リアルタイムに、あるいはやや刹那的に、
子供の頃に感じた感覚の延長として感じていたりすること。
つまり一語いちごの方が元祖です。
そりゃそうですよね。。
最初にネット上で文書書かせてもらったのが、
一語いちごでしたから。
誰も読んでないかもしれませんけどね。
まあ、そういうわけで、
私の個人サイトと、現代時報サイト内の一語いちごの区別が
なんとなく位置的に把握できたので、再開してみます。
できればよろしくお願いします。。
今回は小さな「違和感」シリーズ。
自分の名前に違和感を感じたことはないだろうか。
「もっとかっこいい名前がよかったなあ…」とか
「なんで花の名前なんてつけたんだ?」とか
そういうのではなくて。
ある日、小学校の低学年だった頃、
「あ、私イタクラユキなんだ」という違和感を感じた。
「コップはコップというモノで、
みいすけ(カイネコ)はみいすけというイキモノで、
私はイタクラユキというイキモノなんだ」
と思ったのが、
直接に関係しているかは分からないけど、
そう思ったら、何だか興ざめした。
イタクラユキ「という」イキモノ。
厳密にはイタクラユキだからではなくて、
「という」イキモノ、ということが興ざめする。
名詞なんだなぁ、とか思ったりして。
何がそんなにがっかりなのかわからないけど、
今もがっかりは持続している。
(もっともただの名詞ではなく「固有名詞」だけど)
生まれてすぐに否応無しに、
私につけられた名詞(コード・記号)があること。
それが名前というものである。
それが「違和感」だったのかもしれない。
もっとはっきり言えば「イヤ」だったかもしれない。
「名前」という「名詞」と思うと、
自分がモノになった気がするのだろうか。
ひどく自分の存在が無機質に思える。
その「違和感」に付随して、母親を見ながら、
私は何も今のイタクラユキでなくてもよかったんだ。
この人の子供がたまたま私だったわけで、
もし私ではないほかの私があの時生まれていても、
この人は可愛がるんだろう
と思った。
私が1月5日に生まれない代わりに生まれた誰か、
それを「イタクラユキその2」と呼ぶならば、
別に「その1」の存在価値なんてあいまいなものなんだ。
とか。
「たまたま」か「ゆいいつ」か捉え方次第。
そしてこれを書いてまた、何だか、
がっかりしてきた。
今回は私の名前(名詞)がたくさん出てきて
ごめんなさい。
私は私の書いた文章をたまに読み返します。
HPに載ったものも誰かに宛てたメールも手紙も。
自分の書いたものを読むのが好きなのです。
決して自分の書いたものが好きなのではなく、
それを「読む」のが好きなのです。
うーん、どっちにせよ結局ナルシストなのかも・・・。
そんなことをしていて思うこと。
私の解釈やモノの見方や考え方・・・。
つまり広く言えば「視点」とか「感性」とか「論理」とか
そういうものが、いかに「矮小」であるかということ。
同じ人間だから当たり前かもしれないけれど
そういう事実を見つけて悲しくなります。
それを「独自性」というか「個性」なんていう
とても感じの良い言葉でくくることもできるけれど。
いつも同じものしか書けない、のが恥ずかしいです。
人にはその人なりの視点、感性、論理があります。
言葉を変えればモノの見方、感じ方、考え方です。
何がそれらを形づくるのかは特定はできませんが、
それらがその人の性格ともリンクしているということは
たぶん確かだと思います。
そしてその中には暗黙の視点感性論理もあるでしょう。
ちょっと自分で自分を振り返ってみないと、
意識化しにくいような暗黙なもの。
もちろんそれを振り返るのも「自分」ですから、
厳密な意味では
そういった自分の視点感性論理を通さないと、
暗黙のそれらを振り返ることもできない。
つまり厳密には
自分の視点感性論理から自由にはなれない。
ややもするとそんなペシミスティックな事実があります。
それでも自分を振り返ろうとしたいです。
厳密には自由になれないかもしれないけど。
自由になれないという論理さえも、
結局は私の論理に過ぎないかもしれないけど。
自分を振り返るという行為は、
生産的な行為だと思うからです。
自分の考え方の論理的に「再考あり」な点や、
自分を許す方法がたまに思いつくから。
もちろんその振り返りの行為も、
私が「考えることはいいことだ」とか考えているからです。
つまりその行為もまた結局は私の暗黙の論理です。
自由になれない中で、もがく。
自分の視点や感性や論理という限界の下では、
他人をきちんと理解しきることもできないけれど、
いろいろともがいてたくさん考える中で、
出来る範囲での一番「正しい」理解が出来るかもしれない。
それは他人を傷つけないための理解であると思います。
番外編はそんな気持ちをこめて書いてみました。
「見知らぬ彼女」
2002年4月13日 pm6:00
まだネイティブの話す癖のある英語が耳に残っている。
アメリカのニュージャージー州の歴史を調べなさい
なんていうよくわからない宿題も残っている。
私の住む県の姉妹都市であることしかしらない。
「パソコン使っていい?」父にそう聴くと
「おう」父はいつものように私の顔も見ず答えた。
久しくまともに話していないお互いの顔を
素直にみることさえできない。
親子だからそんなとこまで似ている。
2002年4月13日 pm10:00
宿題が終わって、なんとなくそのままネットサーフィン。
もう4年も前に父が買ったパソコンはすこぶる重い。
最近は自分でHPを作れるなんていう
そんなお手軽なサービスも登場したらしい。
そんな無料サービスでHP作る人の気がしれない。
そんなお手軽でいいんだろうか。
やるならもっと本格的にやれよと思ってしまう。
そんなそんなそんな。
多少軽蔑がこもったそんな形容詞かつ副詞が
頭を続けざまによぎった。
自分の軽蔑心にも多少嫌気がさす。私はいつもこうだ。
2002年4月13日 pm11:00
この人も昨日HPを作ったらしい。
この無料サービスはHPが出来た新しい順に並べていて。
その列のちょうど真ん中くらいに
私と似た名前があって目に留まった。
何が楽しいのか日記まで載せている。
私は日記なんて書く気にならないし。
書いても私の日記なんか人には見せたくもない。
と多少毒づきつつ、「ポチッとな」(古い)。
彼女の日記が表示された。
「2002年4月12日(金曜日)ああ 気がつけばこんな時間に。
いろいろなことにショックを受ける。私がいけないのかなぁ?
もっと素敵な人になりたい。ああ、がんばろう。 」
・・・なんでこの人こんなに覇気がないんだろう。
HP作って一回目の日記がこれだなんて。
「こんな時間」て何時なんだろう。
やはりHPというものは
よほど暇か寂しがりやの人が作るものなのかもしれない。
少なくともこの人は暇なんだろうな。
「いろいろなこと」って何だよ。
自分の悩みをあえて抽象的に表してる気がする。
ほんとは「いろいろ」じゃなくて、
いくつか言葉にできる具体的な悩みがあるんだろうに、
この人はそれを語ることをあえて避けているみたい。
宿題で頭を使うとしばらく脳が活性化するみたいで
いつも宿題の後はこうしてとりとめのないことを
がーって考えてしまう。
今日のそんな暇つぶしの材料はこの人の日記だ。
この人を知っている人がこれを読むから
あまりその人たちに本音の本音は知られたくないんだろうか?
だったら最初からHPなんていう自己表現の場を作るなよと思ってしまう。
けど私にももちろんそんな気持ちはあるし。
わからないでもないけど。
自分の欠点ならなおさら人には言いたくない。
恥ずかしいし、多少のプライドがそれを邪魔する。
でも一人でその欠点ばかりを見つめるのはつらい。
だからこの人は非常に間接的な形で、
その欠点を見つめるつらさを告白しているのかもしれない。
人に言いたくないけど一人で抱えるにはつらいから。
弱い人だ。
あまりつらいよーとも人にいえないんだろうな。
すぐいえてしまう私とは違う。
あとは具体的な悩みと向き合いたくないのかもしれない。
あえて抽象的な表現で悩みのつらさをあらわすことで
自分にもこの日記を読む人に対しても
その悩みの辛さをオブラートで包んで表示する。
そうすれば自分は真正面に悩みを見ずにすむし
また人に見せずにすむ。
たぶん悩みをしられると恥ずかしいとか
悩みを人に知られるとプライドがくずれるとか
自分の悩みと関係する自分の欠点をかっこ悪いと思うから
それを見せたくないんだそう。
そんなことで馬鹿にする人たちばかりじゃないはずなのに
この人は「みんな馬鹿にする人たちばかり」なんて
思っているんじゃないだろうか。
それがこの人の「常識」なんだろうな。
そしてこの人自体がたぶん
人の欠点を馬鹿にする人なんだと思う。いやな人。
完璧でない自分ばかり責めてる
同時に完璧でない他人ばかり責めてるんだろう。
そこは私と似てる。私も父を責めてるそうやって。
この帰結はたぶん完璧主義なんだろうなぁ。
「もっと素敵な人になりたい。」?
この人はこの一文で
意外と悩みを自分から打ち明けちゃってるみたい。
「いろいろ」とか曖昧な表現使って
自分の悩みをぼかしておいて・・・。
結構ヌケているなぁ。
ほんとは悩みを言いたいのかもなぁ。
言わないと人に伝えないと悩みは軽くならないからね。
自分の気の持ちようで変わる悩みもあるけど、
人に聞いてもらいたい悩みもあるはずだし。
でもこの人は、それを人に言えない。
馬鹿にされると思い込んでいるから、
自分はかっこ悪いとこ見せたくないから。
そうしているこの人は辛そうだけど、
どこかで卑怯な人だ、人前で自分をさらしていない。
あ、気の持ちよう、略して気持ち・・・。
新発見。
「ああ、がんばろう。」
多少復活したのか?
曖昧なやり方だけど多少辛さを文にしたから
多少は気持ちが楽になったのかなぁ。
けど「がんばろう」なんてほんとにそう思ってるのかなぁ。
頑張るという言葉はこうして軽く使われたり、
ただの口先だけで使われたり、
そんなことが多い言葉だから、この人もそうなのかも。
なんだかいまいち覇気のない人だし、じめじめしてるし、
ほんとに頑張ろうなんて思ってるのかなぁ。
頑張らないといけないと思って、理想ばかり見て、
それを自分に強制しすぎて頑張れないのかもしれない。
結構完璧主義っぽいところもあるみたいだし。
理想が強固でそれに至らぬ自分を責めつつ、
その理想に追いつかないとだめだ、
そういう自分の「常識」で自分を苦しめるところが、
この人の場合多いんじゃないかな。
完璧であるために頑張らないといけない。
これがこの人の「常識」の1つなんだろうなぁ。
うーん。
私に似ているところもあるけど似てないとこもある。
人間だから性格が多少重なるところはあるよね。
この人のことなんてわからないし、
私は私のモノの見方考え方で解釈しただけで、
その解釈の土台にはきっと、
「楽に、苦しまずに生きるべき」なんていう
今度は「私の」「常識」があって・・・。
だから結局私も私の「常識」でしか
この人のことを解釈できていないのかもしれない。
2003年4月12日
姉妹校の大学に進んで初日。
私大だからパソコンの施設がいい。
これで父のパソコンを借りなくてすむなぁ。
「ポチッとな」
彼女のHPを見てみる。
「1周年記念」そうかぁ、一年たっちゃった。
別に彼女のHPを気に入ったわけじゃない。
たまたまネットサーフィンで見つけたHPには、
特に好き嫌い関係なく行く癖があるだけ。
相変わらず彼女はなんだか自分の決めたことに
勝手に自分で苦しんでいるみたいなところがある。
たかが「自分の常識」に「すぎない」ことを
絶対的なものだと思っているみたい。