現代時報プロデュース 「金曜のベンチ」
(もりげき八時の芝居小屋第63回・’60年代演劇シリーズ第3弾)
2004-09-08~10  盛岡劇場タウンホール
原作/マリオ・フラッティ
脚色・演出/高村明彦
キャスト/田中美圭・小川洋・板倉有紀・小川嘉文・三好永記・真木小苗(フリー)

第三者が書いた戯曲を演出・上演する際、私は「場所」と「状況」と「問題」の3点を重視してます。
どこで、どのようなシチュエーションで、何が問題となっているのか―。私はこれを戯曲のキモと考えていますし、できるだけシンプルに示せるものが望ましいと思っています。

さて、今作品の『金曜のベンチ』は、1969年にニューヨーク在住のイタリア人劇作家、マリオ・フラッティ氏により書かれました。この戯曲を先の3つの要素にあてはめますと、以下の通りとなります。場所は公園、状況は秋の夕暮れ、男と女がいて、問題は生まれたばかりの赤ん坊と将来について、という具合です。なかなか時代に囚われない普遍性をまとっている戯曲といえます。

ここで予めおことわりいたしますが、本日上演する『金曜のベンチ』は、現在出版されている『フラッティ戯曲集』(岩田治彦訳・未来社)に収録されている『金曜のベンチ』とは、イコールではありません。私が演出家の持つ権利を最大限に行使し、大幅に構成してあります。戯曲に書かれていない登場人物も新たに創造しました。何故そのようなことをしたのか、簡単に理由を述べますと、構成したほうが2004年という今現在に、有効であると考えたためです。少々おこがましいですが。

今回の公演は「八時の芝居小屋・60年代シリーズ」という枠組みです。しかし私は、申し訳ないことに、当時書かれた(上演された)戯曲をそのままトレースするには困難を感じました。また、個人的にはそのことにあまり意味を感じられません。それよりは、当時に書かれた戯曲を勇気を持って今のものとし、そのためにあれやこれや策を講じる―。私などはこの行為の過程に演劇的醍醐味や、表現の表現たる所以を感じる人間ですので、ご理解いただければと思います。ちなみに、私が新たに構成した上演台本は、国を日本、時代設定を1960年代後半”あたり”としています。極めて厳密ではありません。どうぞごゆるりとご覧下さい。

最後に、ぜひ興味のあられる方は出版されている『フラッティ戯曲集』も読んでみて下さい。盛岡劇場3階の「演劇らいぶらりー」にも蔵書がありますので、借りることができます。

マリオ・フラッティ氏は現在も精力的に活動なさっています。今夏は「燐光群」の坂手洋二さんと合同で、新作『私たちの戦争』を上演してらっしゃいます。氏とこの作品との巡りあわせに感謝し、挨拶と代えさせていただきます。
(公演パンフレットより「演出あいさつ/高村明彦」)

1960年代後半、秋。
枯れ葉の広がる夕暮れの公園に座り、育児書を読む加奈子(田中美圭)。
加奈子の傍らでは、バスケットの中で、赤ん坊が健やかに眠っている。
やがて遅れてやって来る晴雄(小川洋)。彼にとっては初めてとなる息子との対面。
「おっぱいがでないのよ」という加奈子の言葉を皮切りに重ねられてゆく、とりとめもない言葉のなかで、
お互いの描く未来像に開きがあることに、二人は気づいてゆく。
執筆活動に忙しく、生活費は渡すが結婚はしないという晴雄に対し、
加奈子の友人・真利子(板倉有紀)を家政婦として雇いたいという加奈子。


やがて、晴雄と加奈子との間に生まれた子供は既に窒息死していること、
真利子がなぜ家政婦として住み込む必要があるのかが、観るものに明かされるが、
晴雄は、加奈子の抱える不安を受け止めたいと、強く思う。


弘の祖母の語る「人間は悩むように出来ているのだから、グズグズ悩めば良い」という言葉を着地点に、
それぞれが望む最良の結果と、いま現在、自分が立っている地平との「近づくことのない隔たり」を、
60年代の名作を通して、優しく、静かな視点で描く。

■劇作家マリオ・フラッティ(Mario Fratti)について
ハンター大学イタリア文学教授。1927年、イタリアに生まれ、1963年にアメリカに移住。
映画界のアカデミー賞に匹敵するトニー賞など、数々の賞を受賞した、世界的に有名な戯曲家。
また、ヨーロッパの9つの新聞で演劇批評を執筆している批評家としても知られている。
代表作として、トニー賞を受賞したミュージカル「ナイン」をはじめ、
「自殺」「かご」「帰還」「マフィア」「橋」など、多数の戯曲を執筆。
2004年現在も、イラク戦争への思いをぶつけた短編戯曲「ブラインドネス」を書き上げ、精力的に活動を続けている。
本作「金曜のベンチ」は1969年に発表され、1970年度のミラノ市賞・受賞作となったものを、高村がリライトしている。

photograph:tsukasa miyazaki(≒A.C.P.宮崎商店)
design:HIRAKAWA,shigetora

公演チラシ・オモテとウラ。



photograph:tsukasa miyazaki(≒A.C.P.宮崎商店)、吉田裕太、平川重寅
design:HIRAKAWA,shigetora

公演パンフレット・表紙、中面。

もりげき八時の芝居小屋 第57回「ガタロ」
2003-12-24~25  盛岡劇場タウンホール
キャスト/三好永記・高野ひとみ(劇団・風紀委員会)・羽深庸子・田中美圭・小川嘉文
          佐々木幸等・松田森・板倉有紀

脚本・演出/高村明彦
プロデューサー/くらもちひろゆき(架空の劇団)

今回の作品「ガタロ」はイヨネスコ、ベケットなどに代表される不条理劇の作風をモチーフに、
現代社会における不可思議なもの、
混沌としたものを舞台上に描き出すことを目的としたお芝居です。
主人公のシモヤマは、趣味である釣りをしに、とある沼へとやってきます。
そこで出会う人々との意思疎通のズレ、「沼」という混沌の象徴に、
文字通り両足をつっこんでいる様子を、喜劇的に描写します。
私たちは、少なからず混沌の中において生活をしています。
世の中には秩序や理性だけで割り切れないことも多分に存在するでしょう。
私は、それらの不条理なことの一端を舞台化させることによって、
その滑稽さを笑い、バランス感覚を養うことこそ、
今の世の中にとって意義のあることと考えています。
(公演パンフレット掲載「演出ノート」より)

地方の広告代理店勤務のシモヤマ(三好)が、沼にはまったところから、舞台ははじまる。
パン職人をめざす若い女の子、不登校の子供、その母親、
戦争を経験した祖父、結婚を控えた若い男女などとの、埒の空かないやりとり・・・。

沼にはまったシモヤマを、なんとか出そうと試みる者もいる。
しかしそれとは裏腹に、シモヤマの「陸に上がろうとする思い」は弱くなってゆく。
混沌の中から見える陸に、帰属する場所としての魅力を感じないのか、
それとも本人が云うように「沼がぬるいから」なのか・・・。

終盤、精神科に通院歴を持つハナエ(高野ひとみ)が沼に入ってゆき、
沼は思われていたほど、深くないことが明らかになる。
自己と混沌とのレベルには、大きな差はないこと、
かつては沼で、懸命にもがいていたであろうハナエのアプローチ、
環境をひとまず、そのまま受け入れるということ・・・。
陸に上がり「釣りの面白さ」について思案するシモヤマを、混沌が見守るように包み込む。

photograph:tsukasa miyazaki(≒A.C.P.宮崎商店)

 

公演チラシ・オモテとウラ。デザインはオモテが高村明彦、ウラが平川重寅。
ウラの写真のために、有志で「日帰り遠野撮影旅行」を敢行。
釣りに詳しい小田島が、小友川の奥地まで案内してくれた。

架空の劇団+現代時報「5648-085」(第52回もりげき八時の芝居小屋)
2003-3-12~14  盛岡劇場タウンホール
キャスト/佐々木達矢【香港活劇姉妹】・木村”ぴち”忠行【フリー】
          千葉伴【香港活劇姉妹】・福島史絵【演劇集団九月とアウラー】

特別ゲスト/山本大一【エフエム岩手】・高橋裕二【岩手めんこいテレビ】・河合耕平【テレビ岩手】

現代時報初の合同公演。
架空の劇団主宰・くらもちひろゆきの11年前の作品を、現代時報代表・高村が演出。
一子相伝の殺し屋の血筋のもと、父から子へ伝えられる、
「殺し屋がしなくてはならない仕事」を巡る物語。

父役は日替わりキャストで3人、
子役には若手女優のなかでも期待度の高い福島史絵を招いての公演となった。

殺し屋になるための最終試験で、父は自分を殺した子に、
人を本当に死なせてあげること、そして悲しむことが仕事だと言って別れを告げる。
大地から浮かび上がる光と、そこに落ちる影とが交錯するなか、
誰よりも深い悲しみを背負った殺し屋の姿がゆっくりと見えなくなってゆく。

記録/高橋宏臣(架空の劇団)