2002年春に予定されている
現代時報の第五回公演のための、
代表・高村の脚本執筆の進み具合をチェックすると共に、
スタッフのスケジュール設定のためのミーティングが、
この日、予定されていたが、
盛岡地区は夕方からの激しい風雪のため、
代表判断で「日程延期」が決定された。
シャワーを浴びていたために、
携帯電話の着信を知らなかった平川は、
「早めに行ってマクドナルドでも食うべ」と、
すでに嵐の中を運転中だった。

国道46号線で携帯をチェックし、
延期を知った平川は裏道を使って引き返したが、
タイヤ痕もおぼろげな、あたり一面「真っ白」の世界。
知ってるはずの道が、右も左も分からない道路に豹変。
滝沢(たぶん)の山の方(たぶん)で、
30分程、不安なドライブを堪能した。

(写真は「どこかの道で迷ってる最中の運転席から」)

似非回想
?昔、北海道の観光地だか何かで、
「好きです」という看板だかがある場所があったような気がします?
ちなみに私も、いろいろな食べ物が「好きです」
特に、とうもろこし、苺(とちおとめ、まだまだ高いです。早く食べたい)、
ミッシェルのかぼちゃサラダ、苺風味のもの全般、です。
でも、更に言えば私はこれらの味だけではなく、「存在」が好きなのです。
(何かわけわからないことになってきましたが、
やがて落ち着きますから、しばし見守ってやってください)
存在
例えばとうもろこし。
味もいいですが、外見はどうでしょうか?
はっきりとした黄色でも、ところどころ白いというアンバランスさ。
おひげの生えたお姿。スリムな外見。
英語にするとスウィート・コーン。確かに甘い。
つぶつぶからできていて、一粒ずつ食べたくなるような構造。
煮ても焼いてもその姿が崩れることはない、美。
実に「かわいい」と思うのは、私だけかも知れません。
口だけじゃなくて、目でも食べる。
多分私は、料理は味じゃなくて、
見かけも大切なのよという単純なことを言いたかっただけかも知れません。
それだけのために、なんで「存在」という言葉を使ったのか?
味だけではない、素材そのものの色や形、特徴。
そういうものをひっくるめて言い表せる言葉が、
「存在」のような気がしたからでしょう。
そして、とうもろこしもチョコも好きだけど、
とうもろこしを思い出したときと、チョコを思い出したときに、
心の中に浮かぶ印象の鮮やかさや喜びの感情が、違う気がしたから。
とうもろこしの方が、鮮やかで喜ばしいです。
きっとそこには、とうもろこしなりの素敵な魅力があるのだと思います。
その一味違う魅力を、
「存在」という言葉で表わしたかったのかも知れません。
脳死の人にも、その人がただ生きているというだけで満たされる人がいます。
同時にそこには、非常な悲しみもあるわけですが。
ただ何かがそこに「ある」ことで、
または、或る人が「いる」というだけで、
それらの存在に幸せな気持ちになる。
ただ、「いる」ということがどれほどのものか、
私にとって大切な、ある存在が亡くなってから、実感します。
私がとうもろこしの「存在」を好きなのと、
脳死の人でも、彼を大切に思っている人にとっては、
彼がまだ「いる」ということでどこか救われるということは、
どこかで「ほんの少しだけ」、
私の感じる気持ちの中では、似ています。
かなりわずかだけです。