あの時、もしも?していたら。
何ていう想像だか空想だかはたまにつきまとう。
「if?もしも」というテレビ番組もあったし。
結構使い古されたネタかもしれない。
例え何かに後悔することの少ない前向きな人であっても、
「どちらを選ぼう?」「どれを選ぼう?」
なんて、いくつかの選択肢を前にすると、
「どちら」や「どれ」を選んだ場合の結果を、
多かれ少なかれ、シュミレーションする。
そして、そんなたくさんの可能性の中で、一応は、
ひとつを選ぶわけだけども。
唐突だけど、考える。
もしかすると別の次元で、
あの時選ばなかった選択肢を選んで生活している自分が、
生きているかもしれない。
そうすると、選択することは日々無数あるから、
その選択の数だけ、別の選択をした自分も無数いることになる。
そして今のこの私は、その無数自分の中の1人だったりする。
・・・なんて話、SFチックといえばそれまでの話。
しかもわりと有名なお話。山本文緒の小説にもある話。
こういう話、
好きな人と、特に好きじゃない人に分かれるのは、
どうしてなんだろう。単なる好みの問題だろうな。
もしも、本当に、そうやって、
幾通りもの私が他の次元上にいたら、
他の私は何を思い、何を考えているのだろう。
彼女たちと私は、
板倉有紀という点では同じ人間だけど、
これを書く私とその別の<私>たち(<板倉有紀>たち)は、
実質のところ別人なのだろう。
彼女たちは<私>だけど私じゃない。
その人たちは<あなた>だけどあなたじゃない。
私とあなたは出会えたけど、
<私>と<あなた>は出会えてなかったかもしれない。
くどいね、何かここまで書くと。
でも、いやあ、何となく面白い。
そう思うタイプの人間でした、私は。
・・・結論的な疑問
私にとって<私>は、私ではないのに、
なぜこうも惹かれるのだろうか?
・・・疑問を内包する結論
私は私のことさえもよく分からない。
そんな中で、この<私>たちの存在の想像は、
時に、おそろしく私のアイデンティティを揺るがす。
そしてこの疑問と結論をより具体化する形で、
ひとつ考えるわけです。ありきたりの疑問を。
私が私だと思っている私はどこまで私なのだろうか。
そんな疑問に便乗して、
私が私と思っている私は<私>なのかもしれない、
何ていう、私と<私>の線引きが何か難しい世界に、
迷い込みそうなフシギな感覚を貪欲に想像してみる。
途方もない感覚と、わずかな楽しさを感じながら。
他の次元にいる<私>がこれを読んでくれることまで願いつつ。
どうでもいい人にはどうでもいい話。
そんなことを書いてしまっていいのやら悪いのやら。
しかも話の展開のバランスが悪くなってしまってすみません。