先日現代時報に加入したばかりの羽深庸子を迎える、
加入祝賀会+花見が盛大に行われた。
場所は「5648-085」の際に、スポンサーとしてお世話になった唐変木さん。

19時より祝賀会が始まったのは良いが、肝心の羽深氏が来ない。
さすがに心配し携帯に連絡したところ、
「19:30からだと思ってました〜」と早速ボケをかましてくれた。
その後、無事主役の羽深は到着し、改めて乾杯が行われた。

宴会の席でさまざまな話題が飛ぶ中、
三好から「円高ってどういう状態?」との疑問が出た。
これに対して、田村はおもむろにお手拭きを取り出し、
「これが1ドルだとすると、お手拭きが119円の状態から130円に値上がりするのが円安なんですよ」
と、わかりやすい例題を用いたにも関わらず、そのままな説明をした。
しかし、結果三好は納得した様子で、田村の方法は間違っていなかった事が証明された。

ミニゲーム「この中で一番〜な人(命名は小田島)」も行われた。
これは「この中で一番〜な人」という設問に、
それぞれがそうだと思う人に対して指差しをするゲーム。
序盤は「この中で一番給食を残しそうな人」といった答えやすい質問だったが、
「この中で一番素直じゃなさそうな人」などの、
人間関係に影響しそうな質問も最終的には出た。
そんななか、最大の盛り上がりを見せたのは、
伊藤の「この中で一番キスが上手そうな人」というの質問。

小田島と高村がお互いを指さし、異様な相思相愛を見せた。

メンバーはその後、引き続き花見をしようと、高松の池へ向かった。
しかし桜の時期は既に過ぎており、高松の池は漆黒に包まれていた。
その漆黒にはしゃいだ高村と藤井は猛ダッシュを始め、
メンバーをほったらかしにし自販機で買い物をするため闇に消えた。

記念撮影は、関係者に見られたら注意されそうなイリーガルな場所。
こっそりと記念撮影を行い、羽深を迎える祝賀会を終了した。

写真は「唐変木と三好」「羽深氏登場」「高松貸ボート組合さんスイマセン」

私は私の書いた文章をたまに読み返します。
HPに載ったものも誰かに宛てたメールも手紙も。
自分の書いたものを読むのが好きなのです。
決して自分の書いたものが好きなのではなく、
それを「読む」のが好きなのです。
うーん、どっちにせよ結局ナルシストなのかも・・・。
そんなことをしていて思うこと。
私の解釈やモノの見方や考え方・・・。
つまり広く言えば「視点」とか「感性」とか「論理」とか
そういうものが、いかに「矮小」であるかということ。
同じ人間だから当たり前かもしれないけれど
そういう事実を見つけて悲しくなります。
それを「独自性」というか「個性」なんていう
とても感じの良い言葉でくくることもできるけれど。
いつも同じものしか書けない、のが恥ずかしいです。
人にはその人なりの視点、感性、論理があります。
言葉を変えればモノの見方、感じ方、考え方です。
何がそれらを形づくるのかは特定はできませんが、
それらがその人の性格ともリンクしているということは
たぶん確かだと思います。
そしてその中には暗黙の視点感性論理もあるでしょう。
ちょっと自分で自分を振り返ってみないと、
意識化しにくいような暗黙なもの。
もちろんそれを振り返るのも「自分」ですから、
厳密な意味では
そういった自分の視点感性論理を通さないと、
暗黙のそれらを振り返ることもできない。
つまり厳密には
自分の視点感性論理から自由にはなれない。
ややもするとそんなペシミスティックな事実があります。
それでも自分を振り返ろうとしたいです。
厳密には自由になれないかもしれないけど。
自由になれないという論理さえも、
結局は私の論理に過ぎないかもしれないけど。
自分を振り返るという行為は、
生産的な行為だと思うからです。
自分の考え方の論理的に「再考あり」な点や、
自分を許す方法がたまに思いつくから。
もちろんその振り返りの行為も、
私が「考えることはいいことだ」とか考えているからです。
つまりその行為もまた結局は私の暗黙の論理です。
自由になれない中で、もがく。
自分の視点や感性や論理という限界の下では、
他人をきちんと理解しきることもできないけれど、
いろいろともがいてたくさん考える中で、
出来る範囲での一番「正しい」理解が出来るかもしれない。
それは他人を傷つけないための理解であると思います。
番外編はそんな気持ちをこめて書いてみました。

「見知らぬ彼女」

2002年4月13日  pm6:00
まだネイティブの話す癖のある英語が耳に残っている。
アメリカのニュージャージー州の歴史を調べなさい
なんていうよくわからない宿題も残っている。
私の住む県の姉妹都市であることしかしらない。
「パソコン使っていい?」父にそう聴くと
「おう」父はいつものように私の顔も見ず答えた。
久しくまともに話していないお互いの顔を
素直にみることさえできない。
親子だからそんなとこまで似ている。
2002年4月13日  pm10:00
宿題が終わって、なんとなくそのままネットサーフィン。
もう4年も前に父が買ったパソコンはすこぶる重い。
最近は自分でHPを作れるなんていう
そんなお手軽なサービスも登場したらしい。
そんな無料サービスでHP作る人の気がしれない。
そんなお手軽でいいんだろうか。
やるならもっと本格的にやれよと思ってしまう。
そんなそんなそんな。
多少軽蔑がこもったそんな形容詞かつ副詞が
頭を続けざまによぎった。
自分の軽蔑心にも多少嫌気がさす。私はいつもこうだ。
2002年4月13日  pm11:00
この人も昨日HPを作ったらしい。
この無料サービスはHPが出来た新しい順に並べていて。
その列のちょうど真ん中くらいに
私と似た名前があって目に留まった。
何が楽しいのか日記まで載せている。
私は日記なんて書く気にならないし。
書いても私の日記なんか人には見せたくもない。
と多少毒づきつつ、「ポチッとな」(古い)。
彼女の日記が表示された。
「2002年4月12日(金曜日)ああ  気がつけばこんな時間に。
いろいろなことにショックを受ける。私がいけないのかなぁ?
もっと素敵な人になりたい。ああ、がんばろう。 」
・・・なんでこの人こんなに覇気がないんだろう。
HP作って一回目の日記がこれだなんて。
「こんな時間」て何時なんだろう。
やはりHPというものは
よほど暇か寂しがりやの人が作るものなのかもしれない。
少なくともこの人は暇なんだろうな。
「いろいろなこと」って何だよ。
自分の悩みをあえて抽象的に表してる気がする。
ほんとは「いろいろ」じゃなくて、
いくつか言葉にできる具体的な悩みがあるんだろうに、
この人はそれを語ることをあえて避けているみたい。
宿題で頭を使うとしばらく脳が活性化するみたいで
いつも宿題の後はこうしてとりとめのないことを
がーって考えてしまう。
今日のそんな暇つぶしの材料はこの人の日記だ。
この人を知っている人がこれを読むから
あまりその人たちに本音の本音は知られたくないんだろうか?
だったら最初からHPなんていう自己表現の場を作るなよと思ってしまう。
けど私にももちろんそんな気持ちはあるし。
わからないでもないけど。
自分の欠点ならなおさら人には言いたくない。
恥ずかしいし、多少のプライドがそれを邪魔する。
でも一人でその欠点ばかりを見つめるのはつらい。
だからこの人は非常に間接的な形で、
その欠点を見つめるつらさを告白しているのかもしれない。
人に言いたくないけど一人で抱えるにはつらいから。
弱い人だ。
あまりつらいよーとも人にいえないんだろうな。
すぐいえてしまう私とは違う。
あとは具体的な悩みと向き合いたくないのかもしれない。
あえて抽象的な表現で悩みのつらさをあらわすことで
自分にもこの日記を読む人に対しても
その悩みの辛さをオブラートで包んで表示する。
そうすれば自分は真正面に悩みを見ずにすむし
また人に見せずにすむ。
たぶん悩みをしられると恥ずかしいとか
悩みを人に知られるとプライドがくずれるとか
自分の悩みと関係する自分の欠点をかっこ悪いと思うから
それを見せたくないんだそう。
そんなことで馬鹿にする人たちばかりじゃないはずなのに
この人は「みんな馬鹿にする人たちばかり」なんて
思っているんじゃないだろうか。
それがこの人の「常識」なんだろうな。
そしてこの人自体がたぶん
人の欠点を馬鹿にする人なんだと思う。いやな人。
完璧でない自分ばかり責めてる
同時に完璧でない他人ばかり責めてるんだろう。
そこは私と似てる。私も父を責めてるそうやって。
この帰結はたぶん完璧主義なんだろうなぁ。
「もっと素敵な人になりたい。」?
この人はこの一文で
意外と悩みを自分から打ち明けちゃってるみたい。
「いろいろ」とか曖昧な表現使って
自分の悩みをぼかしておいて・・・。
結構ヌケているなぁ。
ほんとは悩みを言いたいのかもなぁ。
言わないと人に伝えないと悩みは軽くならないからね。
自分の気の持ちようで変わる悩みもあるけど、
人に聞いてもらいたい悩みもあるはずだし。
でもこの人は、それを人に言えない。
馬鹿にされると思い込んでいるから、
自分はかっこ悪いとこ見せたくないから。
そうしているこの人は辛そうだけど、
どこかで卑怯な人だ、人前で自分をさらしていない。
あ、気の持ちよう、略して気持ち・・・。
新発見。
「ああ、がんばろう。」
多少復活したのか?
曖昧なやり方だけど多少辛さを文にしたから
多少は気持ちが楽になったのかなぁ。
けど「がんばろう」なんてほんとにそう思ってるのかなぁ。
頑張るという言葉はこうして軽く使われたり、
ただの口先だけで使われたり、
そんなことが多い言葉だから、この人もそうなのかも。
なんだかいまいち覇気のない人だし、じめじめしてるし、
ほんとに頑張ろうなんて思ってるのかなぁ。
頑張らないといけないと思って、理想ばかり見て、
それを自分に強制しすぎて頑張れないのかもしれない。
結構完璧主義っぽいところもあるみたいだし。
理想が強固でそれに至らぬ自分を責めつつ、
その理想に追いつかないとだめだ、
そういう自分の「常識」で自分を苦しめるところが、
この人の場合多いんじゃないかな。
完璧であるために頑張らないといけない。
これがこの人の「常識」の1つなんだろうなぁ。
うーん。
私に似ているところもあるけど似てないとこもある。
人間だから性格が多少重なるところはあるよね。
この人のことなんてわからないし、
私は私のモノの見方考え方で解釈しただけで、
その解釈の土台にはきっと、
「楽に、苦しまずに生きるべき」なんていう
今度は「私の」「常識」があって・・・。
だから結局私も私の「常識」でしか
この人のことを解釈できていないのかもしれない。
2003年4月12日
姉妹校の大学に進んで初日。
私大だからパソコンの施設がいい。
これで父のパソコンを借りなくてすむなぁ。
「ポチッとな」
彼女のHPを見てみる。
「1周年記念」そうかぁ、一年たっちゃった。
別に彼女のHPを気に入ったわけじゃない。
たまたまネットサーフィンで見つけたHPには、
特に好き嫌い関係なく行く癖があるだけ。
相変わらず彼女はなんだか自分の決めたことに
勝手に自分で苦しんでいるみたいなところがある。
たかが「自分の常識」に「すぎない」ことを
絶対的なものだと思っているみたい。

「フリクショナル・ヒート」ではキャストとして、
またこの前の、架空の劇団との合同公演「5648-085」では、
小道具担当としてお手伝いをしてくれていた羽深庸子が、
現代時報に正式加入する事を、先日明らかにした。

羽深は先の2公演への参加を通して、
「自分がどういうことを表現したいのか、朧げながらやっと見つけることができた」と語っており、
TCT(トラブル・カフェ・シアター)を円満退団ののち、現代時報への加入を表明した。

羽深は、いろいろなことを学んでいきたいと意気込みを見せていて、
彼女の今後が期待される。

以下、羽深談話。

———-
昨年の夏、私は現代時報の「フリクショナルヒート」に参加させていただきました。
自分がどういうことを表現したいのか、
朧げながらやっと見つけることができた私の方向性をも浮き彫りにした公演でした。
その公演の打ち上げの際、古くからの友人がその公演の舞台上でかつての私を見つけたといって驚き、
自分の色を取り戻せたね、といった旨の話をしてくれました。
そして、私は今、自分が自然に泣き笑い喜び怒ることのできる現代時報に加入しました。
現代時報の練習は毎回といっていいほど表現について新たな発見があり、
私はもっともっといろいろなことを吸収し続けたいです。
———-

写真は「フリクショナル・ヒートに参加時の羽深」