
冷麺




冷麺



2003年12月の前回公演「ガタロ」で、
「テクマクマヤコン携帯電話」を製作したほか、
旅行用の巨大なバッグを持ち歩くなど、
パワープレイで知られる小道具担当の小田島が、
練習中に突如、停止した。

それは小田島が、ラジカセの背面に電池を装着しようとした時に起こった。
電池が装着されるべき場所を見つめたまま、停止する小田島。
稽古場のバミリを終えて隣に座った、舞台美術担当の平川が覗き込むと、
小田島が指で押さえていたのは、明らかにサイズの違う電池だった。

「単2だ。単1じゃないんだ」

塩辛い表情をしながら小田島は、
電池の規格を決めた人たちの努力に思いを馳せている様子だった。
高村代表の執筆が好調のようで、
脚本が稽古のたびに、少しずつ増えている。
この日は先日増えた部分の読み合わせと共に、
実際に舞台で使用する小道具や動きなどのシミュレーションも、
合わせて行なわれた。

脚本読みに入る前に、いつものようにストレッチとミニゲームがあったのだが、
問題は「連想ゲーム」の最中に起こった。
連想ゲームは「いかに多く答えるか」ではなく、
「いかに多く答えさせるか」が目的である。
つまり、これもコミュニケーションの一貫ということだ。
しかし、今回特別枠参加の前川寛子(まえかわ・ひろこ)は、
「高級ブランド」との問いかけに対して「ネスカフェ?」と答え、
「給料三ヶ月分」との問いには、事もあろうに「500エン」と言い放った。
公演時の差し入れには、ヒロコオンリーで、
「高級ブランド」を「給料三ヶ月分」でお待ちしております。
この日の稽古は、盛岡劇場・視聴覚室で行なわれ、
役者は脚本に沿って、実際の位置を確認しながら冒頭のシーンを反復練習した。
このなかで、高村代表は、
「僕の稽古は反復が多いけど、それは良い機会だと思ってやって下さい」と話し、
反復によって修得できる部分があることを、役者陣に伝えた。
制作組も同室で、劇団や、高校宛の封書を作成をし、
スタッフワークは、装置製作の「ちからもちモード」まで、とりあえずひと段落となった。

解散直後、照明プランナーの田村が、
おもむろに「あ、オレ結婚することになりました」と一言。
帰りかけていたメンバーは、一斉に田村の方に視線を向け、
「オメデトウ」を連呼した。
田村本人によると、結婚の相手は2つ年下の24歳で、
2年間交際を重ねた末のゴールインとのこと。
いつまでも、このままの状況を続けるのは好ましくない、と判断した田村がプロポーズし、
彼女は即座に「うん。いいよ」と答えたという。
プロポーズの言葉は、最後まで明かさなかった。

その後、田中美圭が(ダミーで)悔しがる姿が見られ、
さらにタグチアツシが本気で悔しがる姿も見られた。
「意味が判らなかった」
あるメンバーは、タグチの行動を振り返り、こう語った。

「悔しがる」というより、むしろ「ねたんでいる」ように見える。歯を出すな。
何はともあれ、田村くん、おめでとう。
プロポーズの言葉は奥さんに聞くからいいです。
誰も私を好きじゃない。
なにかの合言葉のように。
私はよくこういうことを思う人間でした。
・・ということを言ったら振られました。
翻って、
私も誰も好きじゃないのかもしれない。
私はよくそう思って、
自分の人間的な寂しさにうんざりしてきました。
実際、「寂しい人間だね」といわれたこともありました。
それは、私のうんざりさに拍車をかけたわけですけども。
苛められてるあの子に優しくするのは、
単にあの子を独占したいからだとか。
ほら、
人間は誰も味方が居ない時に誰かに優しくされると、
その人にとても感謝するようにできているはずじゃないですか。
私はそういうふうな嘘をついてるんじゃないか、
って物心ついたころに思ったのです。
それはほとんど確信的なもので。
小学校から大学までずっと続きました。
私にとって私は悪人。
他人も、もしかしたら自分のように悪人なのかもしれないと
疑うことはありましたが、なぜか他人を悪人だとは思えませんでした。
エゴとか偽善とか嘘とか依存とか裏切りとか。
自尊心とかナルシシズムとか自意識とか。
そういう言葉をモノサシに、自分の行動を分析する。
悪人の自分に好意をもらうほどの理由が見つからない。
だから、他人の好意が信じれませんでした。
信じたくもありませんでした。
それを信じてしまうと、
自分の自分に対するイメージが崩れるから。
私は悪人である、という自分のイメージは、
長い間自分の中にあるいわゆる「自分が思う自分」で、
そういうイメージって、自我の一部として、
すっごく大切で、
一度そういうのが変に揺らぐと苦痛なんです。
でもね、問題はそこじゃない。
私が私を悪人だと思った理由。
それは自分と他人との間の壁。
どうしても、その壁の存在が大きかった。
それで作り上げたのが、
誰も私を好きじゃない、っていう言葉。
私は、他人との壁をそういう言葉にすり替えたんだと、
そう思います。
それは、好きっていう感情が、
自分と他人との間の壁を壊すものである、
という前提があったからだと思います。
私にとって、壁は強い硬いもので、
壁を壊すよりも、壁を正当化する言葉を作る方が、
たぶん楽で、適応的に生きていく術になりえたんでしょう。
このハナシは、
自分の感情も疑い出せばきりがないとか、
自分がホントに自分と思っている自分とは誰なのかとか、
自分はどこまでホントに自由意志で生きてるのかとか、
そういうすっきりした疑問にすり替えることもできたけど、
でも、
私にとってのこのハナシは、
そういう理論哲学みたいなハナシじゃなくて、
あくまでも一つの経験でそれは単なる理論とは、
全然強度が違う、ということをナントナク強調したいです。
自分宇宙と哲学は融合もするけど、
強度はまったく違うってこと。
自分宇宙というのは、ヒラカワさんの言葉ですけど、
私としてはそれは自分にとってすごく気になる問題とか、
自分にとって切実な緊迫性を持ってせまってくる問題とか、
ナニカシラの苦痛と寂しさを伴う問題のことです。
・・なんて、この6行を書いてる私は、
強度の少ない方の感情のうちにいます。
つまり、この6行は、
私にとっては、自分宇宙ではないってこと。
自分宇宙と哲学の繋がりについては、
ナニカシラ絶望的なものは感じますので、
それを自分宇宙のテリトリー内でどう考えてるかは、
また今度頼まれもしないのに書きます。
誰が読んでもないかもしれないここに。
自虐して終わります。
オワリ